ここにはまだ、歴史を感じる町がある 倉賀野町 ここはかつて倉賀野宿として栄えた町 中山道六十九次のうち江戸から12番目の宿場であり 参勤交代の大名たちの心身を癒す町として 水運での物資輸送の川岸舟場として 大変賑わっていた 賑わいは顔を隠すが 今も尚 面影残る建物が存在し 町並みからは歴史を感じられる 倉賀野町の歴史 古墳時代4世紀末頃からこの地域には浅間山などの大古墳が築造されました。 鎌倉時代やがて鎌倉時代になると、この地に落ち着いた武蔵児玉党の一族が倉賀野氏を名のり、応永年間に戦略的に重要な拠点として倉賀野城を築城しました。 戦国時代戦国時代には上杉・武田・北条氏の勢力争いに巻き込まれ、倉賀野城は永禄七年四月武四氏の攻撃により落城しました。その後武田氏滅亡後は一時織田氏の支配となりましたが、天正十年からは小田原北条氏の傘下に入り、天正十八年(1590)小田原城落城と運命を共にしその後廃城となりなした。 江戸時代江戸時代に入り中山道が整備されると、倉賀野宿には本陣・脇本陣が置かれ、次いで日光例弊使道の基点にもなりました。また、烏川には倉賀野河岸が開かれ、江戸と諸国とを結ぶ物資輸送の中継基地となったことから、宿場は参勤交代の武家・日光例弊使道(公家)や一般旅行者、船頭、人足、町人等で大変賑わいました。享和三年(1803)の記録によると、家数453軒、旅籠屋64軒、人口2056人と当時の繁栄ぶりが偲ばれます。 詳しく見る