江戸時代

街道

①中山道−六十九次

江戸時代の五街道のひとつで、江戸日本橋から京都三条大橋までを結んでいます。
倉賀野宿は江戸日本橋から十二番目の宿で江戸から約二五里、二日半の行程でありました。

②日光例弊使道

中山道を倉賀野宿で分かれ日光に至る街道。
日光東照宮の毎年の例祭に合わせて、京の朝廷から金の御幣を託されていた例幣使の日光への参拝道です。

③道しるべ−市指定史跡

中山道と日光例幣使道の分岐点にあり、「従是右江戸道、左日光道」と刻まれています。

④常夜灯−市指定重文

道しるべの背後に建っており、
竿部の西面に「日光道」
南面に「中山道」
北面に「常夜燈」
東面に「文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書」とあり、
台石の四面には江戸相撲雷電為右衛門等三一二名の寄進者名があります。

⑤一里塚跡

幕府は重要街道には江戸日本橋から一里ごとに「一里塚」を築かせました。
倉賀野の一里塚は江戸から26番目のもので、安楽寺の100メートルほど西の道の両側にありました。
塚の頂上には榎が植えられていたと言われています。

宿場と河岸

A.本陣と脇本陣

倉賀野宿には本陣一(勅使河原家)と脇本陣二(須賀喜太郎家・須賀庄兵衛家)が置かれていました。
本陣は大名・公家用で、脇本陣はその家来や一般の旅行者が宿泊しました。

B.脇本陣須賀喜太郎家(須賀喜)−非公開

「須賀庄」と並ぶ河岸問屋で脇本陣です。
現在の建物は明治中期のもので、連子格子に卵建をあげた母屋と附属屋(番人小屋)は宿場の面影を伝え、
裏手の薬医門や桁行十間の土蔵・味噌蔵は江戸期の建築と伝えられています。

C.問屋場(人馬継立場)跡

伝馬制は、宿から次の宿へ、大名や公用の荷物を運ぶための人足と馬を常備することが、幕府より義務づけられ、
天保十四年(1813)には継倉賀野宿に三箇所の問屋場があった記録があります。
現在、街道の南に碑があるが、本来は北側にあったと伝えられています。

D.高札場跡

江戸時代、往来の多いところに、法令、禁令などを掲示した場所です。

E.木戸跡

倉賀野宿には、中山道の京方向から宿場に入る上の木戸、江戸方向から入る下の木戸が置かれていました。

F.五貫堀 

長野堰幹線用水路を倉賀野堰で分水した倉賀野地区の水田を潤す用水路。
蓋を敷設し暗渠化される以前は水車が設けられ、魚獲りもできました。

G.太鼓橋(寶戲橋)

享和三年(1803)に板橋から石橋に架け替えられた。
当時珍しいアーチ式の石橋で建設費二百両余りは旅籠屋の拠金で、一説には飯盛旅籠の溜銭であるという。

H.古堤・新堤

倉賀野堰は長野堰末流にあたり、下流地域で不足する農業用水の溜池。

I.倉賀野河岸

江戸時代初期に、幕府から公認された、利根川筋最上流の大河岸。
江戸湾(東京湾)から五十里の船路で、
上りは塩・茶・干鰯などが、下りは上信方面の諸大名・旗本の廻米及び麻・煙草・板材などが輸送された。
江戸期を通じて繁栄した河岸も、明治十七年に鉄道が開通すると急速に衰えた。

J.河岸道

中山道から井戸八幡宮への参道を通って河岸に至る道と、横町から南へ下る道が河岸道といわれている。
荷下ろしなどで他の通行の妨げにならないように道端がノコギリ状になっている。

K.牛街道

河岸と問屋場を結ぶ河岸道の一つ。
この名は河岸に荷揚げされた主として俵詰めされた塩を信州方面に運ぶために、
背中に塩俵を積んだ多くの牛が通った道のことである。

L.大杉神社跡

倉賀野河岸を見下ろす位置に建っていた。
元は雷電神社であったが、弘化三年(1846)常陸国(茨城県)安波の大杉神社を勧請し社殿も改修、
雷電大杉神社として河岸問屋・船頭らに信仰されたが、明治40年頃井戸八幡宮に合併された。

寺・神社・史跡

■九品寺門前の橋供養塔

文化四年(1807)の巨大な念仏供養塔の裏側に「百万遍橋供養」の文字がある。
享和三年の「太鼓橋」の橋供養塔と思われる。

■井戸八幡宮

正保三年(1646)、倉賀野城二の廓跡に一夜にして出現した井戸が起源と伝えられる神社。
井戸はいまも残る。

■閻魔堂

江戸時代には阿弥陀堂と呼ばれ、閻魔堂の呼称は明治以降。
閻魔大王は地蔵菩薩の化身といわれ、信仰すれば地獄に落ちず、救われるといわれている。